千葉大女医殺し=1983年1月

逮捕された椎名正(当時)=1983年1月

何一つ不自由のない若手医師の男が快楽に溺れ、異様とも言える女性関係を作り、妻がすべてを知った。そして男は、妻を手にかけた。冤罪説もささやかれる千葉大女医殺し事件は、犯人の藤田正(旧姓椎名)の自殺と共に幕を閉じた。この事件は1983(昭和58)年の出来事である。俗にいう「千葉大女医殺人事件」。

同年1月7日、正月明けの千葉市葛城(現同市中央区葛城)2の5の6地先の路上で午前5時45分ごろ、千葉大学医学部整形外科医局員椎名敦子さん=当時(25)=が絞殺体で発見される。現場には化粧品やメモ帳、免許証や千円札などが散らばり、足元のドブの蓋にはカラの財布が転がっていた。千葉大法医学部で司法解剖した結果、死亡推定時刻は午前3~4時ごろで、死因は首を絞められた事による窒息だった。首の絞め跡から凶器は細いヒモ状のものと推定された。

付近の住民によれば、男の怒鳴り声と女性の悲鳴が聞こえたという。この住民が悲鳴を聞いたのは午前4時前後で、男の怒鳴り声で目が覚めた。最初は近所夫婦の喧嘩かなにかだと思っていたが、男の声は3度ほど聞こえ、その間に女性の声と思われる悲鳴を2回聞いた。この間わずか5分の出来事だった。その後はまたもとの静粛に。

敦子さんの夫、正の証言によれば、敦子さんが殺されるまでの足取りは6日午後8時ごろ、2人は共に仕事を終え、車で同市高品町の焼肉屋で夕食を取り、その後東関東道を通って開港したばかりの成田空港へ飛行機を見に行った。その後同10時半ごろ自宅へ戻ったという。正はその後論文作成の仕事に取りかかり、敦子さんは床についたが「眠れない」と起床。コーヒーを飲んだあと「研究室に行ってくる」と言い残し自宅を出たという。藤田方から千葉大医学部までは約500メートルの距離。敦子さんは近所の住民しか使わない細い道を歩いていて、自宅から約50メートルの地点で何者かに襲われたらしい。

藤田方から同研究室までは何本かの通りがあるが、敦子さんは地元の人も殆ど使わないような道をよく使っていたという。千葉県警は所轄の千葉中央署に捜査本部を設置した。

そのころ、捜査本部では一つの謎に直面していた。なぜ深夜、しかも明け方前の午前3時という時間に「研究室に行く」と言い残し家を出ていったのか。周囲の捜索や聞き込みなどを入念に行ったが、証拠品なども見つからない。午前1時から同6時ごろまでの通行人調査も2回実施した。深夜から早朝にかけての通行者は30人確認されたものの、いずれも深夜に帰宅する労務者や早朝に出勤する作業員、さらには新聞や牛乳の配達人で、不審な人物はいなかった。

敦子さんは1982(昭和57)年3月、栃木県の獨協医科大学を卒業。同年5月に医師国家試験に合格し、千葉大医学部第二病理学教室に研究生として勤務するようになった。6日に顔を合わせた担当教官の話では、普段と全く変わりない様子だったという。この日の研究はモルモットを使って血清反応を調べる実験で、特に込み入ったものではなく、大学に戻る必要性が考えられないものだった。また敦子さんも普段は午前9時ごろに大学に来て研究に取り組み、午後7時ごろに帰宅するのが習慣だった。

敦子さんの遺体は解剖された後、千葉県銚子市新生町の実家に無言の帰宅をした。通夜を終えた敦子さんの遺体は9日早朝、同市西小川町4734の市営火葬場へ向かった。敦子さんの遺影を抱く父親、岩松さん=当時(54)=は目を赤くはらし「一日も早く犯人が捕らえられることが娘の供養になる」と報道陣に語った。母親の康子さん=当時(53)=も悲痛な面持ちで最後の見送りに参加した。一方で正も敦子さんの式に何食わぬ顔で参列し「悪夢以外何ものでもない。早くさめてほしい。あまりにも酷だ」と語った。

1月10日、捜査本部は改めて正から事情聴取を行う予定だったが、正の都合の関係で行えなかったが、千葉中央署本町派出所で簡単な聴取だけ行った。この際、正はポケットからカッターナイフを取り出し自殺を図ろうとしたが、失敗に終わっている。

この頃、捜査本部では2つの謎に直面した。第1は敦子さんの遺体に殆ど外傷がなく、いかに背後から首を絞め殺されたにしても、普通は首の周囲に防御創が認められるもので、それこそ現場にはコンクリートの塀があり、道幅も狭く、ほぼ無傷の状態で倒れていることは考えにくく、あり得るとすれば敦子さんに警戒心を抱かせない者、それこそ近親者や夫でなければ考えられない。それに近所にも千葉大医学部に通っている女性がいて、この人からも聞き込みをしたところ、敦子さんが殺された現場を何度も使っているが、一度も痴漢や暴漢の被害に遭ったこともなく、現場周辺は意外に安全であることを物語っている。第2は、敦子さんの着衣のポケットに無造作に1万円札数枚が入れられていたことで、現場周辺に落ちていたサイフが空になっていることと矛盾する。考えられるとすれば犯人が物盗りの犯行とみせかけるため、現金を敦子さんのポケットに移したという推測しかできない上、なぜサイフの中身を抜いてポケットに移すという工作が必要なのか、という疑問が浮かぶ。これらを踏まえ、正から再度事情聴取をすることになった。

1月12日、捜査本部は正から再び事情聴取をする。その中で「敦子が死んでいるのを最初に発見した」と供述する。

1月16日朝、正は採血自殺を図り、千葉大病院に搬送される。午前8時2分ごろ、自宅2階のベッドの上で顔面蒼白となり、左手首から血を流していたのを母親の藤田つね子さん=当時(50)=が発見し119番。千葉市消防局の救急隊員の話では、正はパジャマとズボンの姿で、出血していたものの意識はあった。その後千葉大病院の救急処置室で治療を受けた。正は14日夜、銚子市新生町の敦子の生家に宿泊し、15日夜、銚子駅から国鉄を使い午後10時ごろに千葉市の自宅に帰宅。父親の藤田正義さん=当時(57)=とつね子さん、親類の3人で話をした後入浴し、精神安定剤を飲んで眠りについた。

1月17日、正は昨秋からフィリピン人の女性ダンサーと深い交際関係にあることが明らかになる。このホステスは愛媛県松山市に住んでいて、捜査員を派遣しこのホステスを空路で捜査本部に連行。事情聴取を行う。この事実はマスコミに堅く口止めしたが、それでも一部のテレビや新聞は無視する。

このフィリピン人ダンサーは19歳。82年暮れ、敦子さんは千葉大医学部病理学教室の同僚とスキー旅行に出かけた際「私たちの青春は終わった。私たちのことはもういいのよ」と話した。敦子さんがスキーに行った同年暮れの28日、正は千葉市のパブスナックから愛媛県今治市のクラブに移ったダンサーを追いかけ今治まで旅行している。彼女が千葉市にいた当時、正は2日に1回は京成千葉駅前のパブスナックに通いつめた。飲食費は2ヶ月で50万円にものぼり、アイフル、武富士、プロミス、茂原市のプロミス支店計4店から相当額の借金をするほどだった。さらに彼女の母親に「結婚したい」とまで打ち明け、自宅に招き入れるなど相当な交際を重ねていたらしい。正は相当な見栄を張っていて、千葉市内の飲食店などでは「私の父は銀行重役だから金には不自由しない」と吹聴していた。

1月21日、敦子さんの本葬儀が銚子市の実家で行われるが、正は病床に伏していて欠席する。

1月22日、正の異様な女性関係などが明らかとなり、報道合戦も加熱するなか、ついに正(以後藤田正)は殺人罪で逮捕される。同日午前7時、捜査本部の幹部は千葉大病院の藤田の病室を訪れ、参考人として同行するように促した。正は「わかりました」と応じ、午前9時ごろから千葉中央署で事情聴取を行った。藤田は変わらず敦子さん殺しを否認したが、裏付けした捜査資料などをもとに、逮捕に踏み切った。第1発見者と話しておきながら自宅にいたと話していたことや、敦子さんの遺体に残らなかった不自然な防御創、いびつな女性関係、短期間にサラ金から借金をしている事実。そして藤田の手のひらに残っていた”細いヒモをきつく握った跡と手の甲のかすり傷”などから、犯人であると断定した。

椎名正(当時)自宅前で報道陣の取材に応じる藤田正義さん=1983年1月23日

1月24日、藤田は千葉地検に身柄送検される。藤田は無表情のまま、マスコミの前に姿をみせた。逮捕事実は「1月7日午前3時ごろから同5時56分ごろまでの間、千葉市葛城2の5の6の宅地造成地内路上で通行中の妻敦子さんの首を持っていたヒモようのもので絞めつけ、よって窒息により殺害した」というもの。父正義さんは正の自宅の軒先で記者会見し「息子の潔白を信じている」と話した。

2月3日、藤田は供述の中で「夫婦仲が悪かった」と供述した上で、「この事件を解き明かされないように複雑にしたのは私がやったこと」とも述べた。また捜査本部の調べで、夫婦仲が相当悪化していたことも明らかになっている。

千葉地検は2月12日、藤田を殺人罪で千葉地裁に起訴する。犯行を否認したままだった。その後の公判では「敦子は新婚旅行から帰った1982年10月23日、30歳前後の男にナイフを突きつけられ、路地裏で強姦されたと泣きながら話した」とした上で「最初は忘れろと話した。優しい言葉をかければ泣いてしまう」とし、殺人ではなく嘱託殺人であると主張した。

起訴状によれば、敦子さんは1月6日、藤田が12月20日から無断欠勤を続けていることを知り、問い詰めたところフィリピン人ダンサーとのことや、敦子さんを殺そうとしたことを知った。実家の両親にすべて話すと言われた正は、このままでは社会的に抹殺されると思い、電気コードで絞殺した後路上に遺体を運んだというものだった。さらに検察側によると、藤田は敦子さんをガス爆発事故に見せかけて殺そうと考え、1月5日から6日にかけ、台所のガスを漏らし、電灯のスイッチを入れたところで引火爆発するように電球に細工をしていたという。

藤田正元被告が自殺に使ったボールペン=1990年

千葉地裁は1984年6月、藤田正に懲役13年の実刑判決を言い渡す。その中で「藤田は結婚直後からフィリピン人ダンサーと交際を続け、大学の医局でも無断欠勤を続けるなど、勤労、勉学の意欲を喪失し、また夫婦仲も冷え切り、敦子さんが実家の両親に話すと言ったため、このままでは医師としての将来もなくなるとして殺害に及んだ」とする検察側の主張を全面的に取り入れ、また藤田が主張した嘱託殺人説も、遺体に残っていた証拠と客観的に合わないと完全に否定、犯行後も強盗殺人に見せかけ、法廷でも弁解を重ねるなど反省の態度もみられず、残忍な犯行方法に刑事責任は相当に重いとした。藤田は上告したが、東京高裁も1審千葉地裁判決を支持。懲役13年。1990年3月13日、最高裁で上告棄却。確定。

藤田は同19日、東京拘置所の独房で母親宛に手紙を書く。手紙の中で自身の再審請求を母親に託した。その2日後、藤田は畳から抜き出したビニール紐を首に巻き付け、ねじるようにして自らの首を絞め自殺した。藤田が犯人であったかどうか、今となっては知る術はない。

出展

千葉日報縮刷版1983年1月~11月
同1984年6月
同1990年3月

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